江戸時代、長崎・島原の養蜂
村木嵐著の小説「遠い勝鬨」で江戸時代の長崎・島原の養蜂の記述があります。
村木嵐は司馬遼太郎の秘書、史料集めもしていた人で記述の信憑性性は高いと思います。
小説の本題とは離れて、江戸時代・徳川の秀忠から家光の時代に替わるころ。熊本城では加藤家の改易の激震の頃の話ですが、江戸から南蛮医術を習得しようと長崎に滞在してた天才的に優れた若先生を村の若者が蜂蜜採りに案内する場面です。
以下、その場面です。
四方に広がった太い枝の一本に梯子が立てかけてある。その段の一つに赤児の頭ほどの蜂房が付いているのを見つける。
若者は、「蜜蝋の匂いが蜂を引き付けるのでございます。あの横木だけに蜜蝋を塗りました故」蜜をすすった蜂房の残りを煮つぶしたものを蜜蝋という。蜂は蜜蝋を塗ると大概そこに房を掛ける。
若者は、花に寄って来る蜂を見、後を追って蜂房を見つけ、それを間引いてきた。来るたびに房を脇差でこそげては。京の天子様に献上されたという蜂の蜜をたっぷり舐めていた。
蜜を取った残りの房も食べれば美味で、煮つぶせば蝋燭にも膏薬にもなるという。唐人はこれを髪油にするそうで、くれてやるとずいぶんありがたがる。
蝋は藥種にもなり滋養もあると聞く。
湯で煮立てれば蜜蝋は面白いようにでき蜜蝋は蜂をおびきよせるとりもちにもなる。
蜜蝋を塗れば好きに蜂房を作れる。横木に蜜蝋を塗れば蜂が飛んで来るまでに半刻もかからない、一度飛んで来れば、房ができていくのはほんの数日のことだ。
古竹を用いるとより多くの蜂が集まる。日陰でさえあれば、およそどんなところでも房を掛ける。日の当たる処では夏は越せぬ。房の中が暑うなれば蜂どもは房を捨てる。
蜂を養っておる者は村でも少ない。何かにつけて手がかかるからだ。
といったのが話の要約です。
この話をどう思いますか。
何かにつけて手がかかる養蜂よりも蜜蝋を横木に置いた古竹に巣を作らせて、巣の一部を間引いて失敬しては。蜜蝋を塗って自然巣を作らせて、その一部を失敬する自然巣の採蜜方式も可能でしょうか。